『明石町・徒然草』 (第一段)ゆりかもめ

 毎朝、夜が明けると間もなく、隅田川の河口から上流へ向かって、カモメ
たちが、三十羽、五十羽と群れをなして低空を飛んで川を遡って行きます。
 浅草の吾妻橋あたりや、上野の不忍池にはカモメの群れがいますから、そ
れぞれの群れは自分たちの縄張りの餌場へと向かうのでしょう。また、さら
に上流へと向かう群れもいるのでしょう。目的地の遠近の違いのためか、こ
の毎朝のカモメの飛行は1時間以上の間続きます。

 赤いクチバシと赤い足、身体は白を基調として灰色の羽根、つぶらな瞳の
後ろに黒い斑点、小柄な身体と可憐な容姿に恵まれているユリカモメの日々
は、自然と共に生きるすべての生き物と同じように、生存と子孫を残すため
の餌探しにほとんどの時間をあてているようです。
 幼いゆりかもめと成長したものとでは、くちばしと足の色の違いと翼の色
の具合の違いで判りますが、生まれて1年目の子供から長くて20年という
寿命の親たちまで、群れは血族で作られているのか、付かず離れずに固まっ
て飛んで行きます。

「名にしおはば いざ言問わん都鳥 わが思う人はありやなしやと」と在原
業平が詠んだ都鳥は、このユリカモメたちの祖先なのでしょう。墨田区向島
の言問橋の名前の由来は、平安時代に遡ります。隅田川はその頃すでに「す
みだがわ」と呼ばれていました。

 ゆりかもめの群れは、どのようにして自分たちの餌場を分け合っているの
か判りませんが、仲間の数が増えて来ると餌が足りなくなるでしょうから、
新たな餌場を求めて分離独立をするのかも知れません。ゆりかもめは個体数
の増加が近年全国的に顕著な水鳥だということですが、昔は関西にはいなか
ったためか、東京都の鳥に指定されていて、新橋からお台場へ向かうモノレ
ールは「ゆりかもめ」と名付けられています。

 隅田川の河口付近の最大の餌場は、築地の中央卸売市場です。
ゆりかもめよりも早起きの人たちが、まだ暗いうちから集まって来て、セリ
が始まり大量の魚が売り捌かれて、都内各地へ運ばれて行きます。その荷さ
ばきが一段落したころの市場の中の広場には、運搬中にこぼれた小魚などの
かもめの好物が散乱しているらしく、数百羽が集まり川沿いに建つ長い市場
の建物の屋根に屯しながら、乱れ飛んでいます。

 昼近くにこの乱舞が収まるころになると、かもめの数は減り、そこへ今度
は、羽田沖の穴子漁の漁船など、沿岸漁業の小さな船が岸壁へ荷揚げに来ま
す。荷揚げを終えた心優しい漁師の与える魚を、川面に浮かんだかもめたち
と僅かな数ながらの川鵜たちが、互いに争うこともなく仲良く分け合ってい
ます。

 かもめと川鵜は最高の食事時を終えても、そのまま市場の建物の屋根と岸
壁の人の入らない場所に屯して、川の中の魚を追ったり、時折に橋の上や川
岸の遊歩道から餌を与える人が現れると、たちまちそこに集まったりで明る
い間を過ごしています。

 遊歩道での餌やりには、近くの本願寺境内をねぐらにしている鳩たちも、
目ざとく集まって来ます。鳩への餌やりは糞公害の問題から禁止されている
のですが、かもめには糞公害は無いようです。
 鳩は地上の餌取り競争でかもめに敵いませんが、それでも追われることも
なく、おこぼれ頂戴とばかり抜け目なく立ち回っていますが、カラスはそう
はいきません。餌場に近づくカラスはゆりかもめに追い払われてしまいます。
 真っ黒でクチバシも大きい見るからに悪役のカラスよりも、白塗りで可愛
らしい容姿のゆりかもめの方が、攻撃的で強いので、かもめのいるところで
はカラスの姿をあまり見かけません。

 やがて日暮れ時になると、川上からかもめの群れが三々五々と戻って来ま
す。朝は川面から2〜30mの低空を飛んで行ったのに比べると、帰りはや
や高い4〜50mあたりを飛びながら、時折に150〜180mほどの高さ
に舞い上がり旋回飛行をします。この飛行形態の変化の理由は判りませんが、
夕暮れ時に舞い踊る風情は中々に良いものです。

 ゆりかもめのねぐらは何処か判りませんが、東京湾の海の上だということ
で、産卵期ではない冬場には繁殖地のような巣は要らないようです。
 4月中頃から北のカムチャッカなどの営巣地へ戻り始め、5月の連休後は
ほとんどのゆりかもめは隅田川からいなくなります。その頃になると真っ白
だったかもめの頭が次第に黒くなり、黒い目出し帽を冠ったように頭だけ黒
い夏毛に変わります。この色変わりの進み具合には個体差がありますが、最
初に見た時にはビックリしました。

 隅田川に再びゆりかもめがやって来るのは、11月に入ってからです。
その年の気象環境によって多少前後することは、他の渡り鳥たちと同じです。
 渡りの往復も三々五々と群れで飛んでいるようで、日々の行動と同じよう
に群れ単位で移動していると思われます。

 群れという小集団は、生存と繁殖のために必要な生き方なのでしょう。
群れで生活をする動物は数多くいますが、人間もまたその内の一つです。
お互いに支え合い、助け合う共生の暮らし方が、自然に即した生き方である
ことを、ゆりかもめたちを眺めていると再認識をさせられます。

2012年4月 9日 (月)

第二十六段 亡くなった人との対話

 親しかった人がこの世を去ることは、悲しいことです。
様々なことを話合い、一緒に過した時のことの記憶は自分が生きている
限り残ることでしょう。
 祖父母、両親など肉親については、仏壇や部屋の中などに遺影を飾っ
たりして一人でも、墓参や年会など家族や親戚が揃ってでも、故人に思
いを馳せることで、霊を慰め供養とすることは、日本では広く行われて
います。

 しかし、仏壇には祀らない親戚ではない人たちでも、親しかった人、
恩義を受けた人、お世話になった人、目をかけた頂いた人、苦楽をとも
にした人、一つ釜の飯を共にした人、などなど人生の様々な場面で関わ
りの深かった人が、この世をさった場合にも、記憶に残るその人との対
話の内容を思い返すことがあります。

 自分自身の歴史の中の様々な場面で、怒られたり、褒められたり、非
難されたり、励まされたり、忠告されたりした、言葉の数々とその場面
の記憶は誰しもが持っていると思います。
 あるいは何気なく言われたりした言葉でも、強く深く記憶に刻まれて、
勇気や闘志をかき立ててくれたり、逆に深く傷つけられてその後へ影響
を残すこともあります。

 自分がいま考えている問題を、もし相談したらば、あの人はどう応え
てくれるだろうか、あるいは、前へ進むための思案をしているときに、
すでに亡くなった人の意見はどうだろうか? と考えることを「亡くな
った人との対話」と私は名付けています。

 今はもうこの世には居ない人との対話ですから、もし生きていたなら
ば、どういう意見を言ってくれるかな、ということなのですが、一人で
考えていると堂々巡りをしてしまうような場合には、異なる視角から考
えるためのヒントを与えて貰えることがあります。

 今、会える人の話に耳を傾けることと同じように、亡くなった人たち
からの言葉を、折に触れて思い起こすことは大切だと考えています。


第二十五段  時は、総ての人に同じに流れない

 秒、分、時、日、月、年と時間はすべての人に等しく流れているよう
に取り扱うことは、世界中の約束事ですが、現実には時間の流れの感じ
方は個々人の感覚にとっては様々に異なります。

 1年という時間の経過を分子として、何歳であるかを分母とすること
で、年齢による1年の感じ方が異なることは、子育てをして子供を観察
した方は経験されていることでしょう。
 分母の小さいうちは、分子が大きく感じられます。「もう幾つ寝ると
お正月」という童謡がありますがね。子供にとっては片手で数えられる
日数でもずいぶんと先に感じています。また、小学生にもなると「昔」
という言葉を覚えて使うようになりますが、「その昔っていつのこと?」
と尋ねると去年のことであったりします。

 誰もが成人に達するまでの期間に感じた時間は、長いのではありませ
んか。未成人に対しては親と社会による制約があり、その制約から抜け
出したいと思う気持ちが、歳月の歩みの遅さを感じさせるのかも知れま
せん。親の目を盗んで、あるいは学校の規則を破って、ちょっとした冒
険を試みた経験は、全く無かった人は少ないでしょう。

 自分が大人になってしまうと、子供の時の感覚を忘れてしまうことは
ままあることですが、しかし、年下の人に接するときには、是非とも思
い出して、察してあげることが必要です。これはその気になれば出来る
ことです。

 ところが、自分では未だ体験したことのない年上の人が、どのように
感じているかを知ることは、簡単ではありません。
 学生である間は、随分と縛られているように感じていても、社会人に
なり仕事をして対価を得る立場になると、学生時代は如何に自分が自由
に使える時間が多かったかを実感します。この格差を学生は捕えること
が出来ないことが多いと思われます。

 社会人となると時間の感覚は、仕事の種類によっての違いが出て来ま
す。また組織の中の立場の違いや、権限と責任の範囲の違いによる差も
生まれて来ます。このことによっての体感時間の相違は、同じ職場の中
では日々のことですから想像はし易く、異なる仕事や異なる職場と目に
する機会の少なくなるほど、理解は難くなります。
 同窓、地域、趣味などで、仕事以外で人に接する機会の多い人ほど、
この相違についての認識は高く、職場だけで生きている人間は低いのが
通例です。

 それでも。同じ社会人ですから、類推をする手がかりはあるのですが、
歳をとって仕事を離れた人たちは、まったく異なる時間感覚を持つよう
になりますので、社会人や学生から推察することは難しくなります。
 仕事の種類や職場で培われた感覚の延長線上であるだろうとまでは、
想像をしても、子供でも親の感じている時間を理解することは難しいも
のです。

 古代メソポタミアの楔型文字を解読すると「近頃の若い者は….」とい
う慨嘆が書かれているそうです。体感時間の格差は人類にとって避けられ
ないものですね。
 格差を問題だとして、何でもかんでも格差を無くせと主張する人たちも
日本にはいますが、視野を世界と古代へまで拡げて考えて貰いたいと願っ
ています。

2012年2月 5日 (日)

第二十四段 「阿比」の群れ飛来  地震の影響はこんなところへ 

 カムチャッカ半島の地震と噴火のためか、昨秋からの「ユリカモメ」の
隅田川への飛来が例年の1〜2割ほどへと激減しています。当初は東日本
大震災で、渡りの中継地の環境が破壊されたためかと考えていましたが、
どうやら営巣地カムチャッカの大地震と火山噴火のためのようです。 

 ところが、2月5日(日曜日)午前8時ごろ、突然に黒っぽい鳥の100
羽ほどの大きな群れが、佃島上空に現れて旋回をしたと後に、一斉に隅田川
に着水し、下流へと群れのかたまりのママ水面を流れ下って行きました。

 これまでに見かけたことのない鳥でしたので双眼鏡で観察し野鳥図鑑で
調べたところ、どうやら「阿比」という名前の北からの渡り鳥でした。 
自然環境の変化に従って野鳥たちは柔軟に対応をして生存しているようです。

漢字名  阿比   学名  Gavia stellata
英名   Red-throated Diver
目    アビ目  科   アビ科
大きさ  L63cm W110cm
分布   冬鳥として九州以北の沿岸に渡来する。北海道では旅鳥。


 地震予知の研究にも「国際化」が必要

 「首都圏でマグニチュード7クラスの直下型地震が4年以内に起る」と
いう予測が発表されて、防災グッズを買い求める人たちが増えるなど、不
安が広がっています。
 東日本大震災の予測では、地震・津波ともに予測が不満足なものであっ
たとは言うものの、やはり専門家集団からの予告警報があれば無視するこ
とは出来ませんね。

 ところで、日本のあらゆる分野で不足している「国際化」は、地震予
測についても同じように問題を抱えていると考えられます。
 と申しますのも太平洋は日本列島から北には千島列島さらにはカムチ
ャッカ半島へと連なっていますが、昨年の東日本大震災の直前2月9日
には、カムチャッカ半島で大きな地震が発生し3つの火山が噴火を始め、
火山灰は7千メートルまで吹き上がり航空便の飛行に影響があったとの
ことです。

 千島列島についてもカムチャッカ半島についても、隣国ロシアであり
ながら、無関心な状態が敗戦後は続き、報道の量は少ないですね。
 地震の研究についてもロシアとの情報や研究の交流は不十分な状態に
あるのではと懸念されます。

 垂直方向へ歴史を遡る地震の研究が不足していたことへの反省は行わ
れるようになりましたが、水平方向への国際的な研究が進められたとい
う話は聞こえて来ません。『改めるに、はばかることなかれ』と申しま
す。今後の発展と充実をお願いします。

(第二十三段)下町の句碑(補追)

  
 第十九段と第二十段の下町の句碑から、間が空いてしまいましたが、
この段では、千代田区、文京区、荒川区、板橋区の句碑を追加します。
蛇足のようですが、ご辛抱をお願いします。

「千代田区の句碑」
  
(1)三輪田学園正面むかって左角  千代田区九段北3-3-15
●「蔓もどき情はもつれ易きかな」  高浜虚子

(2)共同ビルよこ  千代田区 神田小川町  
● 神田の銀杏樹を見て
 「落葉して北に傾く銀杏かな」  正岡子規

(3)城西大学正面  千代田区紀尾井町3
●「寒椿眼に沁む朝予算成る    水田三貴男
  http://tokyochiyoda.blog.shinobi.jp/Entry/178/

(4)神田明神神社  千代田区神田2-16-2
   http://www.kandamyoujin.or.jp/info/keidai.html

●「山茶花や散るや己の影の中」  阿部宵人
  http://tokyochiyoda.blog.shinobi.jp/Entry/91/
●「白うおやはばかりながら江戸の水」 角田竹冷
  http://tokyochiyoda.blog.shinobi.jp/Entry/78/

 
「文京区の句碑」

(1)関口芭蕉庵   文京区関口2-113
   http://kkubota.cool.ne.jp/sekiguchibashouan.htm
●「古池や蛙飛びこむ水のをと 松尾芭蕉(真筆)

(2)昌清寺・駐車場脇 文京区本郷1-8-3 (桜蔭女子高隣)
   http://www.honkane.com/shoseiji.html
●「桜狩りきとくや日々に五里六里」 松尾芭蕉


「荒川区、板橋区の句碑 北区の墓銘碑」

(1)荒川区東日暮里 
JR田端駅東口を出て線路沿いの道「羽二重団子」本店脇
●「芋阪も団子も月のゆかりかな」 正岡子規

(2)板橋区加賀 加賀第二公園 
●「若鮎の二手になりて上りけり」 正岡子規

(3)北区田端 大龍寺  
● 正岡子規 自筆の墓碑銘 

「正岡常規又ノ名ハ處之助又ノ名は升又ノ名ハ子規又ノ名ハ
 獺祭書屋主人又ノ名ハ竹ノ里人伊豫松山ニ生レ東京根岸ニ住ス
 父隼太松山藩御馬廻加番タリ卒ス母大原氏ニ養ハル日本新聞社
 員タリ明治三十□年□月□日没ス享年三十□月給四十圓」

第二十二段  中央区の歴史 (明治以降)

 明治になると新政府は中央政治機構の改革とともに町政の改革を進め、
明治11年(1878年)、郡区町村編成法の施行に伴い、東京府内に麹町、
日本橋、京橋、芝、麻布など15区が置かれました。日本橋区、京橋区は
ここに成立し、これより中央区として合併するまで約70年間、2区の時
代が続きました。

 明治維新で大きく変化したのは行政面ばかりではありません。文明開
化の波は中央区域の街々を限りなく変貌させていきました。まず、築地
明石町が洋館建ち並ぶ静かでエキゾチックな外人居留地へ。次いで、銀
座がハイカラで華やかなわが国一の商業地に……。

 今日のような銀座の繁栄が始まったのは明治以降のことです。明治5年
の新橋・横浜間の鉄道開通に伴い、新橋~浅草間に乗合馬車が走り、同
7年末ガス灯が出現、15年には鉄道馬車が、36年には電車が走り始めま
した。
 洋風の品物を扱う大商店が開店し、日本橋と並んでショッピング街と
なったのは明治20年頃です。既に銀座の並木もおなじみになっていまし
た。
 新聞社などマスコミ機能も集中し、銀座はまさに時代の先端をいく街
となったのです。英人ウォートルスの指導で造られた煉瓦街は当初こそ
湿気となじみのなさで不評でしたが、ひとたび定着してしまえば、それ
もまたハイカラな銀座の名物に……。

  一方、日本橋界隈は、明治6年に兜町の第一国立銀行が誕生したのを
皮切りに、同11年、のちの東京証券取引所である東京株式取引所が設立、
29年には銀行の銀行である日本銀行が開業するなど、近代的金融機関が
続いて創設され、わが国経済の中枢となっていきました。

大正12年(1923年)9月に起こった関東大震災、中央区においても、日
本橋地区は全滅、京橋地区も80%まで焼失という大惨事となりました。
日本橋の魚河岸は築地に移転し、復興事業で昭和通りなど新たな道路が
でき、松坂屋、松屋、三越などのデパートが銀座にいっせいに進出します。
 
 カフェ、バーなども一層賑わって「銀ブラ」という言葉が生まれ、昭
和5年(1930年)以降になるとモガ、モボが洒落たスタイルで街を闊歩
する姿が見られるようになりました。ダンスホールや喫茶店が人気を呼
んだのもこの頃です。

しかし、こうした繁栄も戦時色が濃くなるにつれて下火となり、昭和20
年(1945年)の東京大空襲で、10万人の民間人が焼死し、東京は一面
焼け野原となり瓦礫の街と化したのです。
 中央区平和祈念バーチャルミュージアムをご覧ください。
http://www.city.chuo.lg.jp/heiwa/kioku/index.html
空襲で焼かれた町の地図、小学生が学童疎開で行った所などをはじめ、
「映像ライブラリー」には体験者の証言ビデオがあります。

 日本中どこでも同じですが、中央区の歴史においても地震、台風など
の自然災害と、大火災などが災厄の記憶として長く残されていますが、
やはり最大の災厄は戦争です。

 敗戦による連合国の占領下で、東京は23区制となり、京橋区と日本橋
区の地域を合わせて現在の中央区が誕生しました。
 昼は、銀座四丁目の交差点の真ん中の台に乗ったMP(憲兵)が、手信
号で車を捌くのを物珍しげに眺めたり、夜は歩道にずらりと並んだ露天
商がつけるアセチレンガスの照明の匂いを嗅いだりと、食べるものも満
足にない貧しい中にも平和な時代が始まりました。

 銀座、日本橋の復興は急ピッチで進められ、昭和26年(1951年)頃に
新生中央区が日本の経済、文化の中心として次第に復興し、昭和30年代
には、次第に自動車の数が増えて都電の線路が外され、相次いでビルが
建設されビルラッシュが訪れました。

 さらに東京オリンピック前後になると、頭上には高速道路、足元には
地下鉄の走る新しい都市景観が生まれていきました。
 戦後の中央区の景観の変化を写真で記録した「フォトライブラリー」
が次ぎのサイトです。http://www.city.chuo.photopage.jp/FA10.php
昭和30年代から10年刻みで掲載されていますので、ご覧ください。

2011年12月13日 (火)

(第二十一段)中央区の歴史(江戸時代)

 徳川家康が天正18年(1590)に江戸へ入城した頃は、中央区あた
りは、東京湾の奥に広がり蘆などの生えていた海沿いの湿地帯でした。

 まず江戸城と外堀内の整備が行われ、慶長8年(1603)江戸幕府
開幕とともに江戸の町割が始まりました。神田山(駿河台)の土を
掘りくずして日比谷の入江や豊島の洲崎が埋め立てられ、浜町の辺
りから南新橋に至る隅田川に沿った一帯ができあがっていきました。

 日本橋、京橋などの町人地は慶長10年頃には完成したようです。
なお、大江戸造成にかかる膨大な労働力は、日本全国の諸大名がお
手伝い普請を命ぜられて供出し、現在でもあちこちの石垣の遺跡の
石には大名家の刻印が残されています。

 当時の物流の中心手段は水運でしたから、江戸城の造営の資材搬
入には不可欠であり、新都市の機能のためにも必要であった掘割が、
縦横に造られ「水の都」となりました。そのため掘割が埋められた
今でも、中央区には橋の名前が数多く残っていて、その中で最も有
名な地名が日本橋です。

日本橋は平川が東へ延ばされて現日本橋川となったところに架けら
れた橋で、橋名の由来については『御府内備考』に「この橋、江戸
の中央にして、諸国の行程もここより定められるゆえ、日本橋の名
ありといふ」と記されています。
慶長9年(1604)五街道の制度ができた時、日本橋を起点としてすべ
ての道路を発達させようとした幕府の理念が日本橋の名になったの
でしよう。
 一方、京橋が架けられたのもほぼ同じ時期で、この道筋は東海道
の出発点、即ち大江戸のメインストリートでした。京橋の欄干には
日本橋、新橋と同じく宝珠が飾られ、その後長く江戸の玄関口とし
て役割を果たしました。

 さて、五街道の制とともに誕生したのが、宿場、伝馬、助郷など
です。全国交通の要となった江戸で伝馬役(伝馬の供給)に携わったの
が、大伝馬町、小伝馬町、南伝馬町で馬喰町には馬市が立ち、伝馬
用の馬を供給していました。

 このほかにも、中央区には幕府の御用を務めた御用職人、御用商
人が多く住み、その職業が町名となった地が多くありました。金座
・銀座をはじめとして、刀の鞘を作った鞘町、米商人の町であった
本石町、さらには本革屋町、鉄砲町、釘町、紺屋町、桶町、呉服町、
鍋町など、いずれも同職人の町でした。こうして町域が次々と拡大
され、元和3~4年(1617~18)には元吉原の地域、寛永元年(1624)に
は八丁堀の東方が埋め立てられ、寛永末年までには現在の中央区域
のほとんどが造成されました。

 明暦3年(1657)正月、本妙寺(文京区)から起こった大火(明暦の大火
=俗に振袖火事という)は江戸市中の60%を焼き冬くす大惨事となり、
死者は10万7000人余り、江戸城の天守閣も焼失し、現在の中央区域
は一部を除いてほとんど焼け野原となってしまいました。
  幕府は直ちに大規模な復興事業に着手し、寛文年間(1661~72)ま
でには新しい区画による江戸の市域が完成しました。火除け地とし
ての広小路が設けられたのも、大名屋敷が御三家を除いて城外に移
転したのもこの時です。

 中央区は、八丁堀、霊岸島とともに武家地が多くなり、日本橋、京
橋一帯が、町屋となって広がりました。築地も、木挽町一帯が造成さ
れて西本願寺がこの地に移り、今日の形ができあがりました。
  一方、現在の人形町から富沢町にかけて形成されていた遊郭元吉原
は大火を機に浅草へ移りました。いわゆる大江戸八百八町というのは
これ以降のことで、中央区が商業地として抜きん出て発展したのもこ
れからです。

 江戸の人口は中期以後100万とも110万ともいわれ、この膨大な人口
を支える物質の供給は、大量輸送のできる海上、河川運輸に頼っていま
した。
 海に面した商業地である中央区域には、このための運河や河岸が幾つ
となく設けられ、なかでも日本橋川、京橋川、三十間堀、八丁堀の河岸
は水運の大動脈ともいえる要路でした。
 日本橋川につながる船入り堀には塩河岸・米河岸・小舟河岸・堀留河
岸があり、米穀類や塩物・乾物類の問屋倉庫が白壁を見せて並び、京橋
川に沿つては薪河岸・竹河岸等の名のとおり薪炭・竹木類を扱う問屋が
並んでいました。また、海産物は室町1丁目から小舟町にかけての日本
橋川に沿った一帯に魚市が立って、大いに賑わいました。

 中央区はまた、江戸町人文化発祥の地でもありました。江戸歌舞伎は
中央区で発祥、成長し、明治以後は、中央区が新劇の中心地となる素地
をつくりました。
  江戸歌舞伎は、寛永元年(1624)中村座の猿若勘三郎が中橋(日本橋と京
橋の中間)で櫓をあげたのに始まります。まもなく、市村座がこれに続き、
やがて森田座、山村座が上演を公認されました。
  明暦以後、人形浄瑠璃等も含めて芝居見物は堺町、葦屋町、木挽町の
3町に限られたので、4座はここに集まり、この3町は魚河岸と並んで最も
江戸っ子的な気風を育んだ地となりました。

「役者の氏神」といわれた市川団十郎をはじめ、市川団蔵、岩井半四郎、
尾上菊五郎などのスーパースターが絶大な人気を得、文化・文政期には
『東海道四谷怪談』で名を残した鶴屋南北(四代目)が出現、また、長唄の
杵屋六左衛門、囃子の田中伝左衛門なども輩出し、まさに江戸歌舞伎は
大衆文化の項点に立つようになりました。
 山村座が取り潰される原因となった絵島・生島事件(1714)は、この頃
すでに歌舞伎が庶民に限らずあらゆる階層の人々を熱狂させるものとな
っていたことを示しています。

 また大江戸の中心地・中央区域は、文化人が多く住み、活動したとこ
ろでもありました。
  早くは三浦按針や河村瑞賢など幕藩体制の確立に貢献した人たちがお
り、中後期になると、三代将軍家光の痘瘡を治した名医・岡本玄治、蘭
学医・蘭学者の前野良沢、杉田玄白、桂川甫周、儒学者の荻生徂徠、青
木昆陽、国学の祖・賀茂真淵、平田篤胤、村田春海など枚挙にいとまが
ありません。
 浮世絵を出版した書店も多く、馬喰町の西村寿堂は東錦絵を多色刷り
で出し、また歌麿の画才を見いだしたのは通油町の蔦屋重三郎でした。
小伝馬町の旅籠屋に生まれた石川雅望は狂歌師の宿屋飯盛、杉山杉風は
本小田原町の御用魚商人、本町2丁目の薬種小間物店は式亭三馬の店、
同じく洒落本作家の山東京伝は銀座1丁目で喫煙具を商う……。身分や
職業もさまざまな人間たちがこの地で自由な文化を創り上げていったの
です。

2011年10月22日 (土)

第二十段  下町の句碑(台東区)

 近世俳句の開拓者「正岡子規」1967〜1902は、司馬遼太郎著
「坂の上の雲」でご覧になられた方も多いと思います。子規は
松山出身ですが、台東区根岸に住んでおりましたので、台東区内
には数多くの句碑が建てられています。
 俳句ファンの方は、まず「子規庵」を手始めに区内の句碑をお
訪ねください。

(1)子規庵  台東区 根岸  
   http://www.shikian.or.jp/
●「をととひのへちまの水も取らざりき」
●「糸瓜咲きて痰のつまりし佛かな」
●「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」
  http://ja.wikipedia.org/wiki/正岡子規
  
(2)笹乃雪  台東区根岸  
   http://www.sasanoyuki.com/
●「水無月や根岸涼しき篠の雪」 正岡子規
●「蕣にに朝商ひす篠の雪」   正岡子規
  
  
(3)区立根岸小学校  台東区 根岸   
   http://www.taitocity.net/negisi-s/
●「雀より鴬多き根岸哉」    正岡子規
  
(4)元三島神社    台東区 根岸  
  http://ruins.niyas.net/tokyo/taito/negisi-motomisima.html
●「木槿咲て繪師の家問ふ三嶋前」 正岡子規
  
(5)西蔵院境外仏堂不動堂(御行の松) 台東区 根岸  
  http://www.e-ishiya.com/tera/taitou/negishi-iriya/ogyounomatsu/ogyounomatsu.html
●「薄緑 お行の松は霞みけり」   正岡子規
 
(6)眞源寺(入谷鬼子母神)  台東区 下谷  
  http://www.asagaoroad.com/f-kishibo.html 
● 漱石来る 「蕣や君いかめしき文學士」 正岡子規
●「入谷から出る朝顔の車哉」    正岡子規
  
(7)下谷神社  台東区 東上野  
   http://www.guidenet.jp/shop/222e/
●「寄席はねて上野の鐘の夜長哉」  正岡子規
  
(8)上野恩賜公園 正岡子規記念球場  台東区 上野公園  
   http://kyuukyodou.sakura.ne.jp/ueno/kyuujou.html
●「春風やまりを投けたき草の原」  正岡子規
   
(9)上野恩賜公園 五条天神社  台東区 上野公園  
   http://kyuukyodou.sakura.ne.jp/ueno/gojou.html
●「みちのくへ 涼みに行くや下駄はいて」 正岡子規
●「秋風や旅の浮世の果知らず」   正岡子規
  
  
(10)鷲神社  台東区 千束   
    http://www.otorisama.or.jp/
●「雜鬧や熊手押あふ酉の市」    正岡子規
  
  
(11)山谷堀公園  台東区 東浅草  
    http://www.romancecar.org/park/data/035.html
●「牡丹載せて今戸へ歸る小舩かな」  正岡子規
  
(12)隅田公園   台東区 浅草  
    http://www.enjoytokyo.jp/amuse/spot/l_00000100/
●「雪の日の隅田は青し都鳥」    正岡子規
  
(13)浅草寺    台東区 浅草  
    http://www.senso-ji.jp/
●「ながむとて花にもいたし頸の骨」 西山宗因
●「花の雲鐘は上野か浅草か」    松尾芭蕉
●「ゆく水や何にとどまるのりの味」 榎本其角
●「観音で 雨に逢ひけり花盛」    正岡子規
●「くわんをんのいらか見やりつ花の雲」松尾芭蕉 
●「女房も同じ氏子や除夜詣」  初代 中村吉右衛門

(14)浅草神社   台東区浅草 
    http://www.asakusajinja.jp/index_2.html
●「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」 久保田万太郎

(15)吉原神社境内 台東区 
    http://www.asakusa7.jp/yosi.html
●「この里におぼろふたたび濃きならむ」久保田万太郎
  
(16)雷門 永谷マンション前   台東区浅草
●「ふるさとの月のつゆけさ仰ぎけり」 久保田万太郎
  
(17)浅草伝法院境  台東区浅草 
    http://www.senso-ji.jp/guide/denbouin.html
●「またの名のたぬきづか春深きかな」 久保田万太郎 
  
(18)(駒形どぜう)  台東区駒形1-7-12 
     http://www.dozeu.com/
●「神輿まつまのどぜう汁すゝりけり」 久保田万太郎 
  

以上

第十九段  下町の句碑(中央区・江東区)

 俳句を石に刻んだ「句碑」は、神社や寺院の境内あるいは街角に、
その土地で生まれたり育てられた文化の記録として建てられています。
 江戸時代に生み出された俳句は、多くの俳人の活躍の場となった、
江戸から東京の下町一帯には多くの句碑が建てられています。
その中の一部かも知れませんが、まずは地元の中央区からお隣の江東
区にある句碑をご紹介します。

 俳句は小中学生の時から、日本人は誰もが習い「五七五」の言葉の
リズムと語感は様々な標語にも使われていて、日本の基礎的文化とも
言えるでしょう。場所の案内図の掲載されているサイトのアドレスを
添えました。句碑の近くへ行かれたときにはお立寄りください。

「中央区の句碑」

(1)本願寺  中央区築地3-15-1 
   http://tsukijihongwanji.jp/
●「春もやヽ景色とヽのふ月と梅」 松尾芭蕉
  
(2)法重寺  中央区築地3-17-10 
   http://www.tesshow.jp/chuo/temple_tsukiji_hoju.html
●「大津絵の筆のはしめは何佛」 松尾芭蕉

(3)鮒佐ビル入口 中央区日本橋室町1-12-13、
   http://www.ganso-tsukudani.com/  
●「発句也 松尾桃青 宿の春」   松尾芭蕉
  
(4)住吉神社  中央区佃一丁目一番十四号 
   http://www.sumiyoshijinja.or.jp/
●「和(やわ)らかで かたく持ちたし 人ごころ」 五世川柳・水谷緑亭
  http://www.viva-edo.com/kinenhi/tukuda/ryokutei.html
  
(5)佃島渡船跡  中央区佃1丁目 
   http://tukuda.tokyo-area.net/tukudawatasibune.html
●「雪降れば佃は古き江戸の島」 劇作家 北条秀司
  
(6)東陽院  中央区勝どき四丁目 
   http://tokyochuo.blog.shinobi.jp/Category/3/
●「この世をば どりゃおいとまに せん香の煙とともに 灰左様なら」
  俳句ではなく和歌ですが、「東海道膝栗毛」の作者 十返舎一九の
  辞世碑です。 お墓もここにあります。
  

「江東区の句碑」

(1)芭蕉記念館  江東区常盤1-6-3
   http://www.kcf.or.jp/basyo/index.html
●「草の戸も住み替る代ぞひなの家」
●「ふる池や蛙飛こむ水の音」
●「川上とこの川下や月の友」
  http://ja.wikipedia.org/wiki/松尾芭蕉 
 
(2)江東区常盤1-6-8 路上
●「ありがたやいたヾいて踏む橋の霜」  松尾芭蕉
   
(3)富岡八幡宮  江東区富岡 1-20-3  
   http://www.tomiokahachimangu.or.jp/
●「めにかヽる雲やしはしの渡鳥」  松尾芭蕉
 
(4)亀戸天神境内  江東区亀戸3-6-1 
   http://www.kameidotenjin.or.jp/ 
●「しばらくは花の上なる月夜かな」 松尾芭蕉 
●「春もやや気しきととのふ月と梅  松尾芭蕉


(5)江東区亀戸 龍眼寺
   http://kkubota.cool.ne.jp/hagidera.htm
●「ぬれて行 人もおかしや 雨の萩」 松尾芭蕉

(6)大島稲荷神社  江東区大島 
   http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/syoukai/14_koto/14029.html
●「秋に添て行はや末は小松川」   松尾芭蕉
●「五月雨をあつめて早し最上川」  松尾芭蕉
  
(7)愛宕神社  江東区大島 
   http://goshuin.ko-kon.net/touto_jinja/08_atago_oojima.html
●「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」 小林一茶
  
 
(8)妙久寺境内  江東区北砂2-1-40
   http://members.jcom.home.ne.jp/michiko328/myoukyuuji.html
●「薮(はこべら)や焦土の色の雀ども」 石田 波郷
  
以上

(第十八段) 中央区の美術館・博物館・資料館

 お江戸の真ん中、日本橋から銀座へかけて中央区の中心部には、様々な
情報の集積されている「美術館・博物館・資料館」があります。
それらの総てをカバーしていないかも知れませんが、ご紹介をします。
 場所と開館日・時間帯・場所は夫々ののサイトでご確認ください。
目的を持っての訪問、散歩がてらの立寄り、夏休みのお子さん教育などの
お役に立てれば幸いです。

 三井記念美術館
http://www.mitsui-museum.jp/
平成17年(2005年)10月 開館
 収蔵品は三井家から寄贈されたものがほとんどで,その数は3700点。
国宝6点,重要文化財20点,重要美術品44点を含み,質・量ともにわが国
ではゆびおりの美術館にあげられる。特に茶道具類。国宝「志野茶碗銘卯
花墻(うのはながき)」をはじめ名品が多い。このほか国宝では円山応挙
「雪松図屏風」,藤原定家筆「熊野御孝記」,国内最古の「銅製船氏王後墓
誌」などがあり,重要文化財では有名な「能面孫次郎」ほか名品の数々を
収蔵しています。

 日本銀行金融研究所「貨幣博物館」
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/index.htm
日本銀行の創立百周年を記念して金融研究所内に設立した博物館。
昭和60年(1985年)に開館しました。
古今東西の貨幣4000点以上を展示し,史料,写真,地図などの資料とあわ
せて日本の貨幣の歴史が理解できるよう配慮されています。

 凧の博物館
http://www.taimeiken.co.jp/museum.html
レストラン「たいめいけん」の5階にある。初代社長の茂出木心護氏が昭
和52年(1977年)に開設したもので,江戸凧をはじめ日本全国から集めた
凧を約3000点展示するほか,世界各国の珍しい凧も展示している。
二代目社長は会長となられ中等部からの塾員です。

 ジュサブロー館
http://www.konishi.co.jp/html/jusaburo/
辻村ジュサブロー氏が平成8年(1996年)に開設した人形館。
辻村氏自身の作品を展示するほか,アトリエを公開してファンとの交流を
行っています。

 ブリジストン美術館
http://www.bridgestone-museum.gr.jp/
フランス印象派を中心とするヨーロッパの近代美術と近代日本の洋画を公開
する美術館。常設展は,印象派とその周辺,印象派以後,近代のヨーロッパ
彫刻,古代の美術,日本の洋画のテーマに分かれ,コロー,マネ,モネ,ド
ガ,ルノワール,セザンヌ,ゴッホ,ピカソなどおなじみの名画や浅井忠,
黒田清輝、藤田嗣治、国吉康雄、佐伯祐三らの傑作に接することができます。

 東京国立近代美術館フィルムセンター
http://www.momat.go.jp/fc.html
国立唯一の映画専門の博物館で,310席の大ホールと151席の小ホールを備え,
各種映画の企画上映が行われている。館内にはこのほか映画に関する各種の
資料を展示する展示室と映画に関する約2万冊の図書を集めた図書室を備えて
います。

 警察博物館
http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/kouhoushi/no3/welcome/welcome.htm
警視庁の歴史と活動に関する資料を展示する博物館。
展示は1階から4階まで。1階では白バイやヘリコプターが展示されていて
「おまわりさん なりきり体験」ができ,子どもたちに人気がある。2階では
警視庁の歴史に関する資料を展示し,3階には殉職警察官の功績をたたえる
コーナーや警察官の制服・武器・凶器などの展示コーナーがある。4階は音
楽隊や鑑識のコーナーなど。コンピュータを使ったモンタージュ写真作成や
ドライビングシミュレータ(要普通免許)があり,遊びの感覚で楽しめます。

 ペンステーションミュージアム&カフェ
http://www.pilot.co.jp/museum.html
株式会社パイロットコーポレーション本社内2階にあります。
古代の尖筆(スティルス)に始まり現在に至る筆記具の歴史を紹介するとと
もに,大正7年(1918年)パイロット製の初の純国産万年筆や英国ダンヒル
社との提携による蒔絵万年筆「ダンヒル・ナミキ」など貴重な資料を展示し
ています。

 ポーラミュージアムアネックス
http://www.pola.co.jp/m-annex/
ポーラの化粧品のコレクションから現代美術にいたるまでさまざまな企画展
を中心に展示をしている。単に美術品の展示だけでなく、コンサートなどの
イベントも開催されます。

 RING CUBE(リコーフォトギャラリー)
http://www.ricoh.co.jp/dc/ringcube/
銀座4丁目交差点、お馴染みの円筒形の三愛ビル8〜9階。
リコーの歴史を物語るカメラを中心にした展示のほか、ワークショップ、実
験ラボなどの施設がある。受付ではカメラデザインのピンバッジやオリジナ
ルの手ぬぐいなど楽しいグッズも販売されている。ギャラリースペースでは、
個展や公募展などさまざまなテーマで展示替えをしながら常時写真展が開催
されています。

 資生堂ギャラリー
http://www.shiseido.co.jp/gallery/
資生堂ギャラリーは大正8年(1919年)のオープンで、日本では最古の歴史
を持つ画廊といわれており、銀座の発展とともに歩んできた資生堂が「新し
い美の発見と創造」という理念で活動を続けてきた。ここからデビューした
美術家も数多い。 現在は、平成13年(2001年)に竣工した同社ビルの地
下にリニューアルオープンし、高い天井の空間が特徴。現代美術に焦点を絞
った企画展を中心に活動を続けています。

 かちどき・橋の資料館
http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/kachidoki/
勝どき橋の建造の歴史や開閉の仕組みなどを紹介するため,東京都が橋のた
もとの変電所を改修して平成17年(2005年)にオープンした。
 館内では橋の模型や橋の部材などを展示し,映像やCGを使った説明が行わ
れている。また,開閉していた当時のままの橋脚内部の機械設備などを見学
する「橋脚内見学ツアー」が毎週木曜日(祝日を除く)に4回行われる(無料,
予約申込が必要)。

 ボタンの博物館
http://www.iris.co.jp/muse/
アイリスが世界各地から収集したボタン約1600点のほか資料や文献を収蔵し,
その中から小さな芸術品ともいえる数々のボタンを素材やデザイン,年代,
国別に展示している。 併設しているサロンではボタンに関する図書のほかに
ボタンに関する映像資料をビデオで見ることもできます。

 ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション
http://www.yamasa.com/musee/
浜口陽三はヤマサ醤油10代目濱口儀兵衛の三男で,パリでカラーメゾチント
という銅版画の技法を開拓し,その作品は世界的に知られている。
その浜口陽三の作品の中から代表作や愛用した道具類などを展示し,あわせ
て夫人の南桂子の作品も展示しています。 カフェ・ミュゼHを併設。

 松竹大谷図書館
http://www.shochiku.co.jp/shochiku-otani-toshokan/
松竹株式会社が長年にわたって収集した資料を一般に公開し文化の発展に寄
与することを目的に設立され、昭和33年(1958年)に開館した。
  収蔵する資料35万点に及ぶ膨大さ。映画や演劇の台本や映画のシナリオを
はじめ、文献、写真、プログラム、ポスターなど図書館の枠を超えた幅広い
ジャンルに及んでいるのが特色。市販されていないシナリオやなかなか見る
ことができない貴重な資料なども数多い。
利用者は目録カードで閲覧したい資料を出してもらうという閉架式。映画や
演劇の愛好者・研究家たちに格好の研究の場を提供しています。

2011年7月31日 (日)

(第十七段) 隅田川の船いろいろ

 東京は雨量の少ない梅雨でしたが、7月9日に梅雨明けしました。
いよいよ夏本番の到来で、水辺を楽しむ人が増えることでしょう。
隅田川花火大会も、大震災の影響で一時は中止と決められていましたが、例
年の7月開催を一月遅らせて、8月27日(土曜日)に開催することが決ま
りました。

  隅田川(すみだがわ)は、東京都北区で荒川から分岐し、東京湾に注ぐ
全長23.5kmの一級河川です。川幅はほぼ200mあり姉妹河川であるパリの
セーヌ川の倍近い幅があります。

 自動車の普及で陸上が交通の主力となり、川を利用する水上交通は脇役と
なりましたが、運搬船はじめ様々な実用を担う船も走っています。また、下
水道整備と排水規制などの環境改善によって、水質の改善が進んで、東京湾
からの魚の遡上も増えて、憩いと遊びの場として復活し、それを楽しむため
の様々な船が行き交っています。
 海でも湖でも水のあるところ船ありですが、大都会東京の中心を流れてい
るだけに、隅田川を行き交う船の種類は、用途や大きさも様々ですので、ど
んな船が走っているのか、ご紹介しましょう。

 まずは、警視庁の警備艇から始めます。
以前は東京にも「東京水上警察署」がありましたが、2008年3月末に廃止さ
れ、新設の「東京湾岸警察署」に吸収されました。お台場などをはじめとす
る湾岸地区の発展に伴う改正です。水上を担当しているのは「水上安全課」
で、隅田川は白髭橋以南を管轄としています。
 警備艇は三種類あるようです。日頃見かけるのは全長12mほどの船で、か
なりの速度で走ったり、ゆっくり走ったりしていますが、パトロールをして
いるだけで、サイレンを鳴らしているのを聞いたことはまだありません。

 お次ぎは東京消防庁の消火艇です。
隅田川には日本橋消防署浜町出張所と、臨港消防署の消火艇の両方が、水難
事故の救助活動と、沿岸地区の火災の消火にはサイレンを鳴らして出動して
います。また消防活動には日頃の訓練が必要らしく、サイレンなしで川を上
ったり下ったり、2隻で連れ立ったり、水上バイクを従えていたりと様々な
訓練をしています。

 毎朝、一番に姿を見せるのは輸送用の船です。
何を積んでいるか判らないタンカー船、タグボートが牽引している大きな艀、
逆に艀を押しているタグボートなど、数は少ないのですが早起きです。
 意外にも漁船は漁場が近いためか早起きでは二番手で、佃からも出ますし
川上の何処からかは判りませんが、一人、二人、三人と乗った小型の漁船が
東京湾を目指します。乗合の釣り船も見かけますが隅田川沿いには釣りのた
めの船宿はあまり多くないようです。

 川面のゴミを掃除する作業船もいます。他にも何をしているか判らないの
ですが、明らかに何かの仕事か役割りを担っていると思われる、小型の船の
種類は多いのですが、それぞれの数はあまり多くありません。
海洋大学の訓練船と、学生がオールで漕ぐカッターもたまに姿を見せます。

 数が多くて華やかなのは遊びの船です。
エンジンを艇内に備えた大きな船はあまり多くなく、船外機を一つか二つ付
けたプレジャーボートが、数多く走っています。遊びですから週末の日中が
多く、見た目にには判りませんが、レンタルしたり遊覧させたりの商売をし
ている店が沿岸にはありますし、東京湾内の各所から隅田川へ来る船もある
のでしょう、多種多様な遊びのためのボートが走っています。

 週末には水上スクーターが群れで走ります。どういう訳か単独で走ってい
ることは、ほとんど無くて、4台、5台、あるいは7台と集団で飛ばしてい
ます。中には女性を後ろに乗せたりしているのも見ますが、安い乗り物では
ありませんので、乗り手は若者よりもチョット年上という感じです。
真夏にはカヌーの群れも現れて、佃公園のあたりに屯したりしています。

 日が暮れるかかると、川の主役は屋形船になります。
江戸時代の屋形船とは桁違いに大きな船で、最低でも20名、大きいのは40
名程度の宴会が出来そうな屋形船が、屋根の軒に赤い提灯を下げて隅田川を上
り下りします。原則は貸切で運行しているようですが、乗り合いも一部ありま
す。近頃は提灯ではなくて、ネオンで船縁と屋根沿いとを飾った、派手な船も
あります。
 通常は、お台場の夜景、レインボーブリッジ、東京タワーなど海からの東京
を眺めて飲食を共にする宴会船ですが、最近はスカイツリー見物が加わり、河
口からスカイツリーの見える永代橋近くまで遡って来る船が増えました。来年
からライトアップされると更に人気となることでしょう。
「屋形船 東京」で検索をすると、様々な屋形船の案内があります。

 最後になりましたが、一人でもよし、誰でも乗ることが出来る観光遊覧船が
定期的に走っています。日の出桟橋を起点に浅草の吾妻橋とを往復するコース
もある東京都観光汽船と、両国を起点にお台場海浜公園などへ行く東京水辺ラ
インの2社があります。乗降場所とコースは違いますが、定期的に走っていま
すので、岸辺から見かける機会の多い大型船です。

 昼間はお天気の良い日には、沿岸の桜、新緑、紅葉の季節の眺めを楽しめま
すが、夜は季節に関わらず、雨が降っていても夜景を楽しむことが出来るでし
ょう。営業案内は下記のサイトです。
東京都観光汽船 http://www.suijobus.co.jp/
東京水辺ライン http://www.sumidas.com/ryogoku/mizuve/index.html

 それにしても、毎日、隅田川を眺めていると、道路に比べて閑散と言えるほ
ど通行量の少ないことが気になります。陸上のインフラが使えなくなる大地震
などに備えて、救援のための船着き場が幾つかありますが、日常的に水上交通
を利用することを考える人は、まだいないようですね。
 原則規制・例外自由の日本ですから、利用には様々な規制があるのでしょう
が、隅田川右岸にはまだまだ残っている掘割と川を有効活用するよう、規制を
撤廃したらば、新しいビジネネス・モデルも生まれるのではと考えています。

以上

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